2009年01月08日
継続は力なり。
キズモノ帯揚げの行商・絞り加工の協力店回り、この仕事は両方ともなくなり・・
私は「家庭内失業状態」になってしまいました。
次は、母親のすすめで、「とうふ売り」をすることにしました。
有松の町、旧東海道沿いにあった、服部豆腐店でした。
とうふやさんから豆腐を預かり、売りに行くと言う仕事でした。
小学校6年生になった春でした。
あの頃、もめんごしの豆腐が、1丁15円
絹ごしが、18円だったと記憶しています。
1丁売れると、3円と4円でした。
先ず、初日は、ラッパの吹き方を覚えました。
翌日からテリトリーを決めてもらい、自転車に15丁ほど積んででました。
朝5時頃から、勇んで店をでたものの、なかなか売れませんでした。
2時間ほどで売れたのは3~4丁だったと思います。
残りの豆腐はほとんど崩れてしまっていました。
売り物のとうふが、くずれてしまった、困ったなー
「弁償させられたらどうしよう!」
おそるおそる、店主にその旨を伝えました。
「あぁー”えぇよ!そこへおいときゃー・・」
今日の私の稼ぎは、10円ほどなのに、ダメにしてしまった豆腐が10丁ほど・・・
ショボンとしていた私に・・
大きく崩れた豆腐は・・「がんもどき」にする、
一部崩れたものは・・三角の「生揚げ」にすると、店主は教えてくれて、、
「なれれば,こわさなくなるし、もっと売れるようになるから大丈夫だよ」
店主は笑顔で、慰めてくれました。
ほっとして、とうふやさんの第一日目を終えることが出来ました。
日を重ねるごとに、豆腐は売れるようになりました。
2週間も続けた頃・・・
あの家は、何曜日に買ってくださる。
月曜日は、いつもより30分ほど早く店を出るとよいなど・・
何曜日の何時頃は、どのあたりがよく売れるなどわかってきました。
時間、道順などを自分なりに上手に組み立てることにより、
売り上げを伸ばすことが出来、毎朝の豆腐売りが楽しくなってきました。
その頃すでに、1日の売り上げが、12~13丁になっていました。
扱いもうまくなり、こわれてしまうのは、1~2丁でした。
上手に時間と場所を組み立て、継続して回ることによって、
私を待っていてくれるお客さんが増えてきました。
私の豆腐が届かなかったら・・・・
私を信頼して待っておられる家の味噌汁は、具なしになってしまいます。
責任を感じ、どんな天気の日でも、休まずに毎日頑張りました。
店主が、「井上君、よう売れるようになったナー、明日からは20丁積んでいきやー」
とてもうれしい言葉をもらいました。
20丁積んで出た最初の日は、
ほめられたことと、認められたうれしさで、やる気満々でした。
「ようし、何が何でも売り切るぞ!」と、必死に回りました。
その日からは、くずれてしまう、1~2丁を除き、全部売りきるようになりました。
商品も、とうふ、あげ、ヒリョウズ(がんもどき)、なまあげと、増やしてもらいました。
一ヶ月の収入は、2000円にも達するようになりました。
でも学校では、とうふやさん独特のにおいを発していたようで、
クラスの仲間にいやなことを言われ、学校は嫌いになってしまいました。
今風に言うと、いじめだったかもしれませんが、、、
お金を沢山稼ぐと言う自信と、
成績では負けないと言う自信で、
相手にしませんでしたし、あまり苦にもなりませんでした。
でも・・女の子に、もてなかったのは、少し寂しかったです。
とうふ売りを、一年続けて中学生になりました。
愛知県で一番高い山、茶臼山へ登りたいという夢がありました。
今でこそ、簡単に車で行けますが当時は、、
豊橋・本長篠・田口・そしてバスと徒歩で丸一日かかります。
山では寝るのに、テント(米軍の放出品)が必要、、、なんて考えると、、
結構なお金が必要となります。
とうふの収入から、家には、半分入れておりました。
残りの半分で自分の学費と茶臼山貯金をしていました。
当時、有松から茶臼山へ登るなんていうことは、
途方もないことだったと思います。
とうふのお客さんに、「あんた、よう頑張りゃーすネー!」と言われ・・
「僕、茶臼山へ登りたいんです。そのために頑張っているんです」と話したら、、
「内の息子もちょっと、連れてたってくれーせん?」と言われ、
同学年の二人が一緒にいくことになりました。
昭和30年7月21日から・・・3泊4日
夢だった、茶臼山登山は、実行出来ました。
中学校1年生の夏でした。
「継続して物事に取り組めば、夢は達成できる!!」
わたしの販売の原点・・・・
つづきは又書きます。
私は「家庭内失業状態」になってしまいました。
次は、母親のすすめで、「とうふ売り」をすることにしました。
有松の町、旧東海道沿いにあった、服部豆腐店でした。
とうふやさんから豆腐を預かり、売りに行くと言う仕事でした。
小学校6年生になった春でした。
あの頃、もめんごしの豆腐が、1丁15円
絹ごしが、18円だったと記憶しています。
1丁売れると、3円と4円でした。
先ず、初日は、ラッパの吹き方を覚えました。
翌日からテリトリーを決めてもらい、自転車に15丁ほど積んででました。
朝5時頃から、勇んで店をでたものの、なかなか売れませんでした。
2時間ほどで売れたのは3~4丁だったと思います。
残りの豆腐はほとんど崩れてしまっていました。
売り物のとうふが、くずれてしまった、困ったなー
「弁償させられたらどうしよう!」
おそるおそる、店主にその旨を伝えました。
「あぁー”えぇよ!そこへおいときゃー・・」
今日の私の稼ぎは、10円ほどなのに、ダメにしてしまった豆腐が10丁ほど・・・
ショボンとしていた私に・・
大きく崩れた豆腐は・・「がんもどき」にする、
一部崩れたものは・・三角の「生揚げ」にすると、店主は教えてくれて、、
「なれれば,こわさなくなるし、もっと売れるようになるから大丈夫だよ」
店主は笑顔で、慰めてくれました。
ほっとして、とうふやさんの第一日目を終えることが出来ました。
日を重ねるごとに、豆腐は売れるようになりました。
2週間も続けた頃・・・
あの家は、何曜日に買ってくださる。
月曜日は、いつもより30分ほど早く店を出るとよいなど・・
何曜日の何時頃は、どのあたりがよく売れるなどわかってきました。
時間、道順などを自分なりに上手に組み立てることにより、
売り上げを伸ばすことが出来、毎朝の豆腐売りが楽しくなってきました。
その頃すでに、1日の売り上げが、12~13丁になっていました。
扱いもうまくなり、こわれてしまうのは、1~2丁でした。
上手に時間と場所を組み立て、継続して回ることによって、
私を待っていてくれるお客さんが増えてきました。
私の豆腐が届かなかったら・・・・
私を信頼して待っておられる家の味噌汁は、具なしになってしまいます。
責任を感じ、どんな天気の日でも、休まずに毎日頑張りました。
店主が、「井上君、よう売れるようになったナー、明日からは20丁積んでいきやー」
とてもうれしい言葉をもらいました。
20丁積んで出た最初の日は、
ほめられたことと、認められたうれしさで、やる気満々でした。
「ようし、何が何でも売り切るぞ!」と、必死に回りました。
その日からは、くずれてしまう、1~2丁を除き、全部売りきるようになりました。
商品も、とうふ、あげ、ヒリョウズ(がんもどき)、なまあげと、増やしてもらいました。
一ヶ月の収入は、2000円にも達するようになりました。
でも学校では、とうふやさん独特のにおいを発していたようで、
クラスの仲間にいやなことを言われ、学校は嫌いになってしまいました。
今風に言うと、いじめだったかもしれませんが、、、
お金を沢山稼ぐと言う自信と、
成績では負けないと言う自信で、
相手にしませんでしたし、あまり苦にもなりませんでした。
でも・・女の子に、もてなかったのは、少し寂しかったです。
とうふ売りを、一年続けて中学生になりました。
愛知県で一番高い山、茶臼山へ登りたいという夢がありました。
今でこそ、簡単に車で行けますが当時は、、
豊橋・本長篠・田口・そしてバスと徒歩で丸一日かかります。
山では寝るのに、テント(米軍の放出品)が必要、、、なんて考えると、、
結構なお金が必要となります。
とうふの収入から、家には、半分入れておりました。
残りの半分で自分の学費と茶臼山貯金をしていました。
当時、有松から茶臼山へ登るなんていうことは、
途方もないことだったと思います。
とうふのお客さんに、「あんた、よう頑張りゃーすネー!」と言われ・・
「僕、茶臼山へ登りたいんです。そのために頑張っているんです」と話したら、、
「内の息子もちょっと、連れてたってくれーせん?」と言われ、
同学年の二人が一緒にいくことになりました。
昭和30年7月21日から・・・3泊4日
夢だった、茶臼山登山は、実行出来ました。
中学校1年生の夏でした。
「継続して物事に取り組めば、夢は達成できる!!」
わたしの販売の原点・・・・
つづきは又書きます。
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この記事へのコメント
販売の原点…楽しく読ませていただいています。豆腐屋の店主の人柄や、豆腐を買ってくれるお客さんの傾向を考えて動く、小学校6年生の井上社長の姿が浮かびます。関係ないですが、名古屋弁が懐かしかったりします(笑)
Posted by haha at 2009年01月09日 10:32
haha 様
自分が懐かしく思い出しながら、かいています。
そういえば、hahaさん学校が、名古屋でしたね。
これからは自然体で、名古屋の言葉で行きましょうか?
自分が懐かしく思い出しながら、かいています。
そういえば、hahaさん学校が、名古屋でしたね。
これからは自然体で、名古屋の言葉で行きましょうか?
Posted by 井上政彦
at 2009年01月09日 19:32
at 2009年01月09日 19:32僕は10歳から剣道を続けています。
高校時代に不整脈・27~8歳ころには足底腱膜炎と剣道を中断せざる得ない時期を除いて続けています。
井上会長のお話と僕のそれとは生活の糧と趣味性の話と違いますが、「継続は力なり」は信じてます。
僕の剣道における目標は、剣道八段試験に挑むことです。
剣道八段は平均合格率1%です。僕の先生は試験に挑むことなく竹刀を置きました。
剣道専門家でもなかなか合格できない八段審査に挑戦したいです。
高校時代に不整脈・27~8歳ころには足底腱膜炎と剣道を中断せざる得ない時期を除いて続けています。
井上会長のお話と僕のそれとは生活の糧と趣味性の話と違いますが、「継続は力なり」は信じてます。
僕の剣道における目標は、剣道八段試験に挑むことです。
剣道八段は平均合格率1%です。僕の先生は試験に挑むことなく竹刀を置きました。
剣道専門家でもなかなか合格できない八段審査に挑戦したいです。
Posted by 華玉山 at 2009年01月10日 20:12
華玉山 様
人間誰しも、どんな立場であっても・・
夢があり、鮮明に達成したいと思うと、、
力がわいてくるものだと思います。
後は、夢を追い続ける・・・継続だと思います。
8段審査、、頑張って挑戦し続けてください。
人間誰しも、どんな立場であっても・・
夢があり、鮮明に達成したいと思うと、、
力がわいてくるものだと思います。
後は、夢を追い続ける・・・継続だと思います。
8段審査、、頑張って挑戦し続けてください。
Posted by 井上政彦
at 2009年01月11日 12:44
at 2009年01月11日 12:44※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません









